Column

コラム

本作では実際に障がい者の方にもご出演を頂いている。

そのコーディネートを行なっていただいた上野山盛大さんに、お話を伺った。

障がい者の「仕事」について

上野山盛大(一般社団法人大地 AGALA 施設長)

《地域交流古民家カフェAGALA〜あがら〜》とは

障がい者施設にもいくつか種類があり、大きくは、映画『月』で描かれているような入所型の施設と、私たちのような通所型の施設に分けられます。私が代表を務める《地域交流古民家カフェAGALA~あがら~》は、2017年に和歌山県有田市で立ち上げた事業所で、重い障がいの方も、軽度の方も体調に合わせて働きに来る障がい者就労継続支援B型の施設です。通所型の施設なので、皆さんは、ご自宅やグループホームから働きに来てくれています。気軽に働きに来ることが前提なので、「毎日迷惑をかけに来てくださいね」と皆さんに話しているんです。と、同時に「でも、他の人が何かした時は、許してあげてくださいね。そして、他の人が困っている時は、助けてあげてくださいね」とも伝えていて、障がいを抱える人同士で支え合う環境づくりをしています。それがAGALAの理念です。

地域住民との交流

AGALAは、有田市社会福祉協議会主催で空き家を活用した「居場所づくりプロジェクト」で、かつて、市内で最も繁栄を極めた箕島本町商店街の入り口にある築70年余りの木造2階建ての空き家で、建築プロボノをはじめとする、沢山の人の思いにより生まれ変わりました。

AGALAとは、多世代がともに生きるまち有田市という意味を込めて、“All Generations Always Live together in Arida”の頭文字から名付けました。主な仕事内容は、運営するカフェでの接客、パンの製造・販売に付随して、地域住民の依頼に応える形で、草刈りや荷物整理などの軽作業を行う「まごころサービス」というものを大切にしています。それは地域の方の困っていることを支える仕事で、利用者さんはプロのようにはできないけれど、真心を込めて取り組ませて頂くということをコンセプトにした活動です。いまでは予約が取れないほどに依頼が増えてきていて、地域に根付いてきていると実感をしていますが、施設ができた当初は、周辺住民からは「どう接して良いかが分からない」との声があったのも事実でした。

そんな地域の戸惑いを打破したのは挨拶でした。

挨拶をされて嫌な気持ちになる人はいないですよね。特にコロナ過の間は表情が読み取りにくいマスク生活となり挨拶も多様化したように感じます。どんな形であれ人に会ったら挨拶をするということがルール化できていない障がい者の方も多いんです。というのも、障がい者の方々は良い言葉に出会っていないことが多いからだと思います。なにも良い言葉は名言である必要はなく、多くの人が当たり前に行なっている行動をしっかり言語化するだけで充分なのです。なので、「人と会ったら挨拶をしましょうね」という行動のきっかけになるような言葉をどんどん伝えてきました。例えば、「ご飯を食べたら片付けましょう」や「遅刻したら理由を話しましょう」などもそうですね。できないから仕方ないという考えは間違っていて、行動の指針を明確にし支援することが大切で、それによって地域の人たちと挨拶が自然に交わされるようになっていったのです。地域の方からは「挨拶によって、扉が開かれた」という声を頂くようになり、いまでは地域の方と会話もするようになりました。中には、実は障がいを持っている方だと後から知るケースも増えるほどに、コミュニケーションを図る環境づくりに成功しました。

映画への出演について

そのように、地域との交流が図れてきたタイミングで映画のオファーを頂きました。

当初、障がい者を出演させることの是非については正直、悩みました。ただ、前述の通り「障がいを持っているからできない」という考えはこの地域からはなくなったと感じていたときでもあり、出演するか否かを他人が決める話でもないと思ったんですよね。自己決定が大事だと考え、利用者の皆さんに映画の内容を説明して、出演するかどうかの意向を確認することにしました。その上で、出る意思を示した人には、保護者に自分の口で説明するように促しました。私から説明するのではなく、自分で決めてきた仕事という感覚を大切にさせたかったのです。その後、私の方でも保護者の方々にも確認をしました。

この映画は、目を背けたくなる題材だけれども、起こりえてしまう事件が描かれていると思います。施設の実態や環境が悪いという背景はあるものの、前提として大昔から根付く「障がい者を隠す」という考えが大きかったのではないか、とも感じます。その価値観は、少しずつ是正されながらいまの時代になってきていますが、その変化に追いつけていない施設や家族はあると思っています。その乗り越えていくべき課題に向き合う監督・キャストの覚悟を受けて、最終的には私自身も参加の決意を固めました。目を背けたらいけないということに共感をしました。

そして、もうひとつ、障がい者の方々とキャスト・スタッフの皆さんとの化学反応を見たかった気持ちもありました。いままで障がい者の方々が地域の方々と関わることへの支援もしてきて、彼らが、映画の撮影現場ではどういう態度になり、変化するのかを見てみたかったです。他者との接し方に関して、性格を変えるのは難しいけど態度をかえる事はできると、私たちの支援は間違っていなかったかを確かめたかったのです。

映画の撮影を通して

劇中で「ロレレ ロレレ」という台詞を発する利用者の役を演じた田又一志さんは、精神障がいを抱えています。自分に自信を持ちにくく、普段から休みがちで仕事に来ないことも多かった方でしたが、自分を変えるために出演したいと、自ら参加の意思を表明されたんです。しかし、彼には朝昼晩と飲まなくてはいけない薬があり、撮影の進行具合によってはコンディションもどうなるか分からない上に、撮影自体に来ない可能性もありました。ただ、「絶対に来いよ」と強制をするのではなく、託す形で見守り、最後まで田又さん自身の力でこの仕事を成し遂げたんです。撮影チームの理解も大きかったです。それが本当に良い経験で、映画の撮影から1年程経ちますが、驚くことに、それ以来、彼は仕事をほとんど休まないようになりました。その上、臨機応変な対応もできるようになってきていて、田又さんは確実に変わったと言えます。この環境を乗り越えたからこそ、自分に自信がついたんだと思います。これだけでも、映画に参加した意義があります。

また、さとくんが絵本の読み聞かせをしているシーンなどに出演している川端里奈さんにも変化がありました。知的と身体の重複障がいを抱え、以前は寝坊などで休むことが多かったのですが、彼女も撮影以来、一度も休まずに来ているんです。以前は迎えに行っても家の奥の寝床にいたままだったのですが、いまでは玄関で待っているほどになりました。川端さんは、二階堂さんの力が大きいかもしれません。お昼を一緒に食べた時間も楽しかったそうで、最近でもテレビに二階堂さんが出ていると「二階堂さん、がんばっていたわ」と上から言ってきますよ。

そして、田又さん、川端さん以外にも参加した人はもれなく意識に変化が訪れています。

元々、色んなことにチャレンジをしてほしいので、いつも同じことをするのは「作業」で、いつもと違うことをするのが「仕事」だと伝えてきているのですが、役を演じることは、彼らにとって確実に「仕事」であり、大きなスイッチになったと思います。

さらに、その変化は、映画に参加していない人たちにも伝播していきました。具体的には、利用者の役を演じた田中竣さんも撮影後、自立に向けて親元を離れグループホームに入ったのですが、触発されて自立の意思を表明する人が増えてきました。映画の参加者たちが種を蒔き、周囲に良い影響を与え、「仕事」をする人が増えてきたんですよね。

撮影以降は、毎日つける出勤簿の一言欄は「一日一善」に変更しました。一日一善という言葉を軸に、「作業」に捉われない新しい「仕事」を見つけましょうと話しています。

撮影が終了した田又さん

仕事中の田又さん

重度障がい者施設について

私は20年ほど昔、13年間、通所型の重度障がい者施設で働いていました。この映画で描かれている環境に近い施設だったと思います。きっかけは、その前に体育の講師をやっていた時代があるのですが、周りとは違う動きをしている児童がいて、その子が後から障がい者だと知りまして、当時は若くて考えは浅かったですが「言うことを聞かせたい」と思い、障がい者施設に売り込みに行って働くことになりました。

ただ、イメージと違いました。重度の方々は、身体の変形や、言葉を発せない人が多くて「言うことを聞かせる」前に、コミュニケーションをどうすれば良いのか、に主眼が置かれることになったんです。

まずは彼らを理解しなくてはいけないと思い、半年間観察をしました。すると次第に、利用者さんそれぞれの些細な変化に気づくようになっていったんですよね。例えば、「ご飯を食べますか?」と聞いて、本当に食べたい時は瞬きが1回だけ多くなるとかです。ということは、この利用者は、私が言っていること自体は分かっている、ということが分かるんです。それならば、思っていることは口に出して言っていこうと考えを改め、例えば、おむつを替える時にも「ごめん!ヘタクソで!」と言ってみると少し笑う感じも見せてきたんです。とにかく声に出すようにしてから、重度の方の反応が見えやすくなり、彼らも意思決定ができると感じるようになりました。

意思の疎通の取り方は人それぞれであって、できるだけ理解していこうという気持ちが大切なんだと思います。普段は指先の動き、瞬き、口の開閉などを見て判断しますが、目に見えにくい部分に関してはパルスオキシメーターをつけて反応を見たりもしました。呼吸ができているかの確認が目的ではあったものの、通常時の数値との変化が出た時には、何か伝えたいことがあるのです。だから、この映画で描かれる「心ありますか?」という思考は間違いで、「心はある」と言い切れます。人間の条件というものは決められていないのに、この映画ではさとくんが決めてしまっているんです。現実の世界でも各々が勝手に人間の条件を決めてしまうことに陥ったりするのですが、やはりそもそも人間の条件は存在しないわけで、逆説的に、人間は人間なんですよね。

未来について

障がい者には、施設の中で作業だけをしているというイメージを持たれる方もいるかと思いますが、私たちのように、地域社会と密接にひらけていく施設もいまは多く増えてきています。映画で描かれているような大規模な障がい者施設から小規模な施設へ、そして、日中は外へ出て、就労支援や生活介護をするような構造へと変わってきています。

課題はまだまだ多いですが、そのように障がい福祉を取り巻く環境に、抜本的な変化が起きているのも現実です。

これは一例ですが、強度行動障がい支援者養成研修を参考に環境を整え、仕事中に暴れ、パニックになっていたけれど、暴れずにパニックにならないで仕事ができるようになった利用者の事例を見ることも増えてきました。一昔前は、隠したり、匿ったり、怒って静止するという状況が多かったと思いますが、施設の環境、支援や介助の態度によって利用者は変わっていくのです。

なので、腫れ物に触るのではなく、障がい者の方々とも普通にコミュニケーションをとって頂ければと思います。

障がい者の方々も「自分が社会に貢献している、社会の一員だ」というように心のどこかで感じることが安心感になるという側面もあります。挨拶が、人と人とのつながりにおける目に見えない報酬となり自分にしかできないこと、一人ひとりが役割を持って、社会貢献できるということを含めた社会になればと思います。

(取材・構成=長井龍)

上野山盛大
1976
年、和歌山県有田市出身。小中と野球に打ち込み、高校からはサッカー 一筋の人生で現在も続けている。興味のあることには飛び込む所があり、USJのアトラクションの一部の建築に関わったこともある。YMCAで幼児教育や野外活動、健康教育などを経験し、地元にも障がい者がいた事を思い出し、障がい者施設で13年勤務し、その後、障がい福祉事業所を立ち上げた。色んなプロセスがある中で、好きな言葉は「いきあたりばっちり!

障害者問題と呼応する「映画」の存在

二通 諭(札幌大谷大学社会学部特任教授)

『月』が投げかける問いにどう応じるか。まずは、自分史における「障害者問題」との距離、換言すれば障害者のおかれた状況についての認識について考えることになる。私の場合、その起点は1968年・札幌・高校3年の夏である。某大企業の採用試験を受けたのだが、作文が社風に合わないということで不合格になった。これからの社会に求めることという題ゆえ、克服すべき課題として、障害者差別、民族差別、人種差別について書いた。私は排除されたというよりも、あなたのような人は、こんな会社に来てはいけないという教育的対応であるとも受け取った。となれば、方向は一つ。教育にも関心のあった私は、教職につきながら障害者問題にコミットできる障害児教育という道を選ぶことになった。

私が障害児教育系学生として過ごした1970年代初頭の障害の重い子どもたち(以下重症児)は、学校教育から排除されていた。養護学校義務制実施、すなわち完全就学が制度として実現したのは1979年。すべての子どもの教育権を謳う憲法が制定されてから32年後のことだった。したがって、重症児は在宅、あるいは施設に入所していた。1973年、私は卒業論文の下調べで、近隣の施設を訪問した。そこで檻のようなところに入っている子どもを目撃した。私を案内してくれた管理職と思われる人物は、なんで学生がこんな所に来るのだ、こんな所を見て何の意味があるのだ、ここの連中のすることといえばマスタベーションくらいのものだ、とネガティブな言葉を発し続けた。

これは、『月』が描いた2010年代半ばの施設の実態そのものである。本作は、半世紀の時空を経て、非人間的な劣悪きわまりない処遇をしつつ、この連中は人間じゃない、と言い放つ感性、思想の持主が今なお跋扈している状況を告発している。

私は、檻の中から解放するのは、私や私の世代の役割であるとの思いを抱きつつ、1974年に障害児学級の教員になった。即座に手をつけたのが、地域に埋もれている在宅障害児の実態調査。やはりと言うべきか、ある子どもは自傷行為が常習化していた。聴覚障害と知的障害を併せもつ重複障害の子どもも行き場がなく、在宅で放置されていた。たらい回しではなくて、学校教育を保障することが先決だと考える教師たちと実践の先鞭をつけた。

教室のみに留まっていてはいけないとも考えた。1977年、障害者の生活圏拡大運動と銘打って、休日には、3人の車椅子利用者と10人を超える学生たちと札幌駅と列車、周辺の道路、デパートなどの点検調査活動に出かけた。これは、その後のバリアフリーを目指す運動の端緒となった。

北海道の地でも障害者の権利獲得、社会参加に向けた運動が可視化された1970年代は、全国的にはもっと多様で激しい運動が展開されていた。名古屋のゆたか共同作業所を嚆矢とする共同作業所運動が労働権保障の扉を開き、川崎における車椅子利用者のバス乗車拒否に端を発した障害者による実力闘争が交通権保障の課題に一石を投じた。一方、子殺しや親子心中という事態にもしばしば直面し、悲嘆、絶望から希望へと反転させる療育、教育の構築も求められていた。私もまた身体、労働に着眼し、教科・芸術へと発展する教育課程と実践づくりへと歩を進めた。1)

その際、実践のバックボーンになったのが、次に紹介する一本のドキュメンタリー映画であった。

『月』のモチーフでもある津久井やまゆり園事件(16726)から一年を前にして、毎日新聞『余禄』(17723)が、事件加害者・植松聖(本作ではさとくん)の思考と行動に対抗する映画として、糸賀一雄監修『夜明け前の子どもたち』(68/監督:柳澤壽男)を取り上げた。滋賀県の重症心身障害児施設「びわこ学園」で1960年代に製作された本作の最初の題名が「進歩における極微の世界」だったこと、障害児の極微を見続けていた糸賀が、「この子らに世の光を」とあわれむ対象ではなく、彼らは自ら輝く力をもっているのであり、むしろ「この子らを世の光に」と、視点の転換を呼びかけたことを紹介している。

同作は、重症児の存在の意味を明示したという点で画期的なものであった。すなわち、重症児を微視的には人間発達の共通の道を歩んでいる存在として、巨視的には在るべき社会を生産する存在として明示した。とりわけ、これまで笑顔を見せることのなかった寝たきりのシモちゃんの微笑みのショットは、療育・教育の力と人間の発達可能性を示唆し、その後の完全就学をめざす運動を鼓舞するものとなった。その意味で、シモちゃんに象徴される重症児は、たしかに社会を生産する存在たりえたのである。

しかし、である。『月』におけるさとくんの思考・行動と、それを生み出した施設の精神風土に、糸賀の思想の継承は見られない。

『夜明け前の子どもたち』の冒頭、シモちゃんの顔のアップに、以下のようなナレーションが被る。

「光を感じているが見えてはいない。音を感じているようだが聞こえない。口は。口は、ただ食べ物を流しこまれるためだけにあるようで。そうして10年間を寝たきりだけで暮らしてきた。重症心身障害児と呼ばれている。」

『月』では、きーちゃんが、シモちゃんの役割を担う。きーちゃんの状況について、職員の陽子が新人職員の堂島洋子に以下のように説明している。

「きーちゃんと呼ばれています。話ができません。立てないし、歩けません。10年以上このベッドの上で暮らしています。眼も見えませんし、音も聞えません。意思疎通はもちろんできません。」

 両作とも重症児者の「実態把握」から出発しているが、その後の実践展開が大きく異なる。

『夜明け前の子どもたち』は、シモちゃんから一旦離れ、動くことができる重症心身障害児への療育実践へとシフトする。とりわけ、河原における「石運び」の実践は、先述したとおり私の教育実践のバックボーンの構築にも一役買っている。以下、実践の原理とも言えるキーワードである。

▶︎上田君が指に巻きつけている紐は、見方によっては「止めさせたいこだわり」だが、外にむかって行動する際の支えなのであり、よりポジティブに「心の杖」と命名

▶︎ナベちゃんが上り坂にかかると力を出してくれるという事実から、発達には坂道に象徴される「抵抗」が必要であると提起し、ここから「発達的抵抗」という概念が起動2)

▶︎発動機をかけるという喩えによる意欲や主体性の喚起3)

▶︎発達課題・教育指導課題を考えるヒントとしての子ども自身が行う再生再現活動4)

▶︎教育的支援における諸感覚の統合という視点5)

▶︎労働による仲間関係の構築6)

▶︎発達的空間7)

▶︎仰向けからうつ伏せへの姿勢変換

▶︎水や砂など変化する素材への着目8)

▶︎「ヨコへの発達」9)という発達観

など、本作に宿る思想と方法は、公開から半世紀を経て、今なお光を放っている。

 対して、『月』で描かれた施設は、県のマニュアルに従っていると口にするのみで、職員による入所者への虐待は見て見ぬふりだ。さとくんは、自作の紙芝居による実践を展開していたが、それを迷惑がる同僚から迫害され、頓挫する。承認要求や自己有用感が満たされないさとくんは、国家から承認されるという妄想も手伝って、2施設、260人の障害者の抹殺を企図することになる。無駄な者は排除して生産性を上げていかないと社会はもたないという論理で、話ができない者を心がない者とみなして抹殺していくのである。行動に先立ち、「これで僕は一角ひとかどの男になります」とも語っている。

さとくんや同僚、管理職のような面々には、少なくとも『夜明け前の子どもたち』などの映画の集団鑑賞、集団批評の機会が必要なのだ。施設における障害者虐待、権利侵害喧しい現状をふまえ、さらに2本の映画を紹介しておく。

 津久井やまゆり園事件のドキュメンタリーとして、『生きるのに理由はいるの?』(19/監督:澤則雄)がある。同施設の職員であった加害者・植松は、重症者に「心失者」という造語を当て、不幸を生み出すだけの「心失者」を殺害することは、世界平和のためだと強弁。植松は、浴室で溺れかけた入所者を救命したときに、家族に喜ばれなかったというエピソードをもって、障害者抹殺を是とする「持論」を正当化。家族が思っていても実行できないことを自分が代行したのだ、という筋立てである。仮に家族の対応に「問題」があったとしても、それもまた社会的な矛盾に規定された「障害者問題」の一つであり、社会変革こそ主要な課題となる。だれもが生きやすい社会を創ることによって障害者問題も漸次解決に向かう。植松には、社会科学的な視点が欠けている。また、人間は外界とのやりとりをとおして何者かになりゆく存在。生きる過程においてそれぞれの存在の意味、理由がせり上がってくる。本作のラストのエピソードのように発達可能態としての人間の姿を明示することによって、差別主義、優生思想の影響を極小化できる。

『帆花』(21/監督:國友勇吾)は、生後すぐに「脳死に近い状態」と宣告された娘・帆花(ほのか)と母・西村理佐、父・西村秀勝の日常に密着したドキュメンタリー。理佐さんは、帆花さんから「いのちとは、生きるとは、ただそこに在るということであり、そのかけがえのなさこそがいのちの重みであることを教えられた」(本作パンフレット)と述べているが、作中、ポロッと「世界の中に私と帆花の二人っきりみたいな気分になる時がある」、「私のやってることって意味あるのかなと思うこともある」とも語っている。これこそ万人への問いであり、『月』の問いとも重なる。この問いに、どう答えるか。あえて答えるなら、帆花さんのような重症児のいのちと発達を、家族はもちろん、周囲の方がみんなで守ろうとするのは、高度に発達した資本主義下で培った思想、感性によるものだ、ということになる。

資本主義社会は弱肉強食、格差と分断を招くという負の側面があるが、資本主義社会以前の封建制社会、奴隷制社会と異なり、労働能力を売るが、人格は売らない。すなわち、労働能力に差があったとしても人格は等価だとする思想、感性を醸成するのだ。帆花さんには資本主義に宿る積極面、歴史の発展段階が投影されている。もちろん、帆花さんは何を生産する存在か、と問われたなら、あるべき社会を生産する存在である、と答えることになる

私は、障害者問題解決の行方を探るという観点から、障害者映画を追いかけてきた。これらの映画は時にさとくんや、彼を生み出した土壌を批評し、時には意識を変える。

だから、もっと映画を、なのだ。私たちの明日のために。

【註】

1)二通らの教育実践の一端は、坂本九の冠番組「ふれあい広場・サンデー九」832

27日放映「ぼくらのお母さんはひまわりだ」にて、母子心中を思いとどまった親や、子

を殺めた親の減刑嘆願署名を断った親の声などとともに紹介されている。社会福祉関連の

情報番組として、76年から85年まで全462回、札幌テレビ(STV)で放送された。

坂本九は、85812日に発生した日航機墜落事故で死去。

*以下2)~9)は、筆者の解釈を交えたものである。

2)「発達的抵抗」とは、それを超えることによって発達の道を歩むことになる矛盾やハードルのこと。子どもの「持てる力」を引き出し、高めるものである。

3)「発動機」とは、行動を喚起させる言葉、音、しぐさ、動き、合図、諸感覚への刺激。

4)差し出した教材に基づく活動が子どもの発達の課題に合致したものであれば、指導した大人が去ったあとでも、子ども自らその活動を再現する。

5)パンツを履く、という指導では、正面に回り、視線を合わせ、言葉とともに動かしてほしい足を触るなど、触覚も駆使することで、課題の理解と達成が容易になる。

6)たとえば、ペアによる運び労働をとおして、相手のリズム、テンポに合わせる術を学ぶ。

7)たとえば、鯉のぼりを見上げるといったタテの空間の導入。

8)変化する対象への働きかけによる認知や巧緻性の向上。興味・関心の拡大。

9)発達はタテ方向に進むだけでなくヨコ方向にも広がる。たとえば、自身の居場所から周囲の様子をキャッチし、その上で活動の内容、活動の場、活動する仲間を拡大していく。活動意欲の拡大でもある。

【参考文献】

岡田秀則・浦辻宏昌(2018)『そっちやない、こっちや 映画監督柳澤壽男の世界』新宿書房

につう・さとし

1951年、北海道出身。1974年北海道教育大学札幌分校卒業後、北海道石狩管内小中6校で35年間の教員生活を送り、2009年から札幌学院大学教員として主に特別支援教育関連科目を担当。20194月より札幌学院大学名誉教授。202110月より札幌大谷大学社会学部特任教授。映画関連の著書として、『映画で学ぶ特別支援教育』(単著11/8/25)、『特別支援教育時代の光り輝く映画たち』(単著15/8/9)がある。障害者・マイノリティ映画を中心とする連載「映画に見るリハビリテーション」(医学書院:『総合リハビリテーション』)は26年、317本に達している。一般社団法人障害映像文化研究所・顧問。